知らないことと分からないこと

知は、武器である。

知っていること、って言うのは圧倒的な武器です。
昔の私のように、「丸暗記なんて試験勉強にしか役にたたない」とか「Googleがある時代に、情報を暗記する意味が無い」とか思っている人もいますが、それは大いなる勘違いです。
大量の「知識」の出力は、それだけで大きな武器です。
そもそも、Google先生は、明確にキーワードを伝えないと答えを教えてくれないのに対し、人間の脳は、曖昧検索に強いわけですよ。
だからこそ、「沢山知っている」とは、それだけで、「会話するタネやキッカケを大量に持っている」ことを意味するんですね。

でも、全ての武器が、知からなるわけでもない。

が、「知っていること」だけを武器にしようとすると、今度は会話ができなくなっちゃいます。

例えば、「グリーンカレーってどんなの?」って聞かれたとしましょう。
「いや、知らないです」って言われるとそこで話は止まっちゃいます。
そもそも、「わかんない」とか「知らない」って以下のどれにでも当てはまるんですよね。

  1. 情報としては大まかには知ってるけど細かくは知らないし、食べたことがない
  2. そもそもグリーンが緑を表す英単語って知らないので、「グリーン」なカレーの意味がわからない
  3. カレーを食べたことが無いので、味も匂いも想像つかない
  4. 根本的に、「グリンカ・リエ」って言う人名だと思って

でも、カレーとかグリーンって単語がわかってたら、食べたことなくても「いや、食べたこと無いけど緑のカレーでしょ? まずそう」くらいは言えますよね。
グリンカさんだと思ってたら「え? 滝川クリステルの後釜? 報道ステーションとか出てるの?」って言っても良いでしょう。

その後、実際に見て「うわ、グロいし予想以上に辛い、でもおいしいわー」ってなるかもしれない。
「あれ、何、ただの緑のカレーなの? 美人女子アナじゃないの? じゃあいらね」ってなるかもしれない。
それで良いんですよ。だって知らないんだもん、正解しないのは当たり前です。

知らないことを推測することは、武器を研ぐことである

こうやって推測するクセをある程度付けておかないと、私たちは「自分が知っていることの外側」に行けなくなっちゃうんです。
進みたい方向や自分の将来像、とかキャリアパス、とかまぁー言い方は色々あるんですけど。
それって絶対に、「自分が知っていることの外側」に攻め入らないと手に入れることができないはずなのです。
そのためには、「外側の世界はどんなんだろー」って、常に想像を働かせないといけないんです。
その想像ができなくなった時点で、その人の世界はそこでストップしちゃうから。

だから、安易に「知らない」ってことは言わないで欲しいなぁ、と思うのです。
本当にくだらない、たかがグリーンカレーごときでも、「知らない」で終わらずに、どんなものか想像して欲しいんです。
手持ちの情報を、手持ちの知識を使って。

この話は、同時に、教える側にも強く自戒すべきポイントなのですが。
「間違っている」コトに対して過剰に厳しく批判するのは良くないですよね。
それが「当人の過去の知識の蓄積から分かって当たり前」であれば批判しても良いかもしれませんけど。
でも、円周率の小数点第100位を知らない、ってことを謗る意味なんて無いでしょう。

なのに、「なんでお前円周率の小数点第100位すら言えないんだよ何なのお前生きてる価値あるの? 数学科卒でそんなんもわからないって意味あるの?」とか言っちゃう先輩がいるわけです。
こっちはこっちで、大問題なんですよね。
というか、こういう輩がいるから、「知っていることしか言えない」状況になっちゃう。

こっちの話はこっちの話で、またいつかやりたいなーって思ってます。