(後輩に)伝えたい、この思い 【第二部: この社会は結果主義ですが、過程も大切にね】

間が開きました

この辺りのネタは会社で時間が空いた時にメモに書き溜めていたのですが、そのメモを会社に置きっぱなしにしてました
自分の中で風化しつつあるのですが、ブログって言うのは「自分の中で風化しても残る」から面白いのだ、と言うことでこのネタは続けようと思います。

世の中は結果で評価します

仕事をしていると、「あぁ、結果主義なんだなぁ」って言うのはヒシヒシと感じます。
ここで述べる結果主義、と言うのは、「求められるうちの最低限の結果を出さない限り、評価対象とすらならない」と言うことですね。

例えば、「美味しいカレーが食べたい」って言う要望があったとしましょう。
「美味しい」って言うのは主観的な部分であり、この時点では難しいので、まず求められている仕事は「カレーを出す」ことになりますね。
ポイントは「カレーを作る」じゃないってことですね。
「たまねぎを買ってきて、カレー粉を準備してアレコレ時間をかけてカレーを作る」ってことだけが正解じゃないわけです。
なので、美味しいカレー店を紹介しても良いですし、レトルトカレーを買ってきても良いってことになりますね。
そして、「カレーが客の前に出されて、そのカレーを客が食べた時点」で、ようやく評価されます。
100円のレトルトを渡して「これはあんまり美味しくないよー」とかなんとか。

と言うことは、全然料理できない人がものすごい頑張って、それでもカレーが作れなかったとした場合、それは評価されない、という意味になります。
「すごい料理頑張ってたもんねー、カレーできなかったけど仕方ないねー」って話にはならないんですね。
これが、最初に受ける衝撃ですね。

過程が報われないのは空しい

大学、特に院生なんかであれば別ですが、学校には「努力を認めて、評価する機能」として先生が存在しますし、「努力を認めて、評価すべき」と言うルールがあります。
言い方を変えると「得点や宿題の採点結果などの目に見えるもの(=結果)」のみではなく、「目に見えない個人の努力(=過程)」を意識して評価しましょう、ってことですね。

ところが、会社には、「努力を認めてくれる存在」がとてつもなく少ないです。
カレーの例であれば、先輩の気持ちとしては、「美味しいカレーを食べてもらおうと慣れない料理に挑戦した人」を評価したい時もありますが、仕事として見た場合、後者を評価せざるを得ないんですね。
そこを評価しても(短期的には)収益を上げられないためです。
カレーを欲しがっている「顧客」の目には「ただ時間とお金を浪費しただけ」としか見えませんから。

この「(目に見えない)努力を認めるシステムが無い」状態で努力をするのって、すごい空しいんですよね。
私だって、炎上プロジェクトに巻き込まれたら「したくもない残業をして、それでも間に合わなかったんだから、まずは残業で必死に間に合わせようとしたことを評価して欲しい」って思ってしまうわけですし。
ですが同時に、「たくさん残業する方が良くできる、って風潮は間違っている」と考えてますから、結局私も「結果で評価する」世界の住人に過ぎないわけです。
同様の価値観は、新人も持っていますし、だからこそ「残業をしないことが正義」と言う価値観が広がりつつあるわけですよね。

覚えておかねばならないのは、「目に見えないものを認めるシステム」と言うものは、学校教育くらい強固なルールを作らねば、すぐに(人間の感情によって)瓦解する、と言うことです。

もちろん、新人「教育」ですから、教育の間はある程度過程も評価対象になる、と言うか、過程を評価対象とするフリをしているので、あまりこういうことは言えないのですが。
会社に入ると、「結果さえ出せばある程度、過程は問わない」と言う前提は「適切に手を抜く」上でとても重要です。
ここを忘れてしまうと、過程が報われないことになり、どんどん苦しい思いをすることになってしまいます。

自分のことくらいは「過程」で評価しましょう

と言うことで、社会に出ると、いきなりコレまでとは違う評価基準を叩きつけられるわけです。
評価してくれる人が全て、貴方の努力まで見てくれているわけではありませんし、努力しているからと言って低品質であればダメなんですね。
そんな殺伐とした評価基準に晒されると、「結果【だけ】を求める」ことになるのは仕方ない流れかと思います。
ただ、結果だけを求めてしまうと、よほどうまく立ち回らない限り、「自分がやりたいこと」からどんどん遠ざかってしまいます

結果とは、「誰からでも見えるもの」であり、「評価して欲しくなくてもみんなが勝手に評価するもの」です。
それはそのまま給与に響きますし、昇進にも響きます。
このことから、どうしても私たちは自分の行動にすら結果を出すことを求め続けてしまいます。
ただ、結果は、「目に見えるもの」ですから、「誰が評価しても類似した結果になる」傾向があります。
即ち、「自分自身の評価を結果で評価する」とは、「評価基準を外部に置く」ことに他なりません。

私たちは結果で評価されることからは逃げられないのですが、だからこそ、「自分の努力は自分が認めてあげる」ことが大切です。
「努力したけれど結果が出なかった時」は、自分を褒めてあげてください。
あるいは、「結果は出たけれど、自分の求める過程を踏めなかった場合」は、外部の評価に甘えないで下さい。
私たちの評価はどうあがいても結果と言う束縛から逃れられない以上、その束縛から解き放てるのは「自分自身」しかないので。

結果を求めすぎないということ

例えば、「残業をゼロにしましょう!」って言う努力目標があったとしましょう。
「仕事量を減らす」か「仕事を早く終える」かの二つのアプローチがありますね。
まぁ、簡単に仕事を早く終えることができるようにはならないので、仕事を減らす方向へと進まねばならないでしょう。
と言うことは、無茶な仕事が来れば残業はゼロにできません。
この時、「結果だけを求める」人の多くは、無茶な仕事を単純に断るだけで終えてしまいます。
過程を無視しているんですね。

無茶な仕事と言うのは、それをせねばならない背景がある場合や、あるいはそもそも仕事をする人のスキルが圧倒的に不足していることで「無茶に見える」場合など、様々な理由があります。
そのため、残業をゼロにするために本当に必要なのは、「スキルアップ」であるとか「要員追加」であるとか、あるいは「仕事の見直し」になるはずです。
そこにまで意識が向かっていない「残業ゼロ」は、直近の結果としては良いかもしれませんが、継続的に結果を出すことが困難です。

最初のカレーの例であれば、「美味しいカレーを出してくれるお店を誰かに聞く」のが一番手っ取り早い方法で、その方法を取れば結果は出るのですが。
仮にそのカレーを美味しくない、って言う人が出たときの対策として他にどんなお店が提案できるか、とか、「他に美味しいカレーは無いの?って話になった時に、どんなカレーが出せるかって言うのは、日ごろから調査したり色々な人の話を集めたりしていないと出せませんよね。
この一手こそ、「日ごろ、結果以外の部分でどれだけ努力したか」がものを言う瞬間なんですね。

そういう意味でも、「自分だけは、自分の頑張りを褒めてあげる」と言うのはとても重要なことです。
イヤになるくらい結果主義の社会ですから、自分くらいは、心のオアシスになってあげるべきですよね。

あ、でも、給与は結果に対してしか支払われませんから、「自分の頑張りを周囲に認めてもらう」って言うのはちょっと無理なのですが。
だからやっぱり難しいんですよねー。